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タクロバン

2014年2月、前年11月8日未明にこの地に上陸したスーパー台風(日本名台風30号、フィリピン名Yolanda、国際名Haiyan)の強風と通常以上の(100年に一回とも)ストームサージにより特に沿岸部で多数の犠牲者が発生したことから、その復旧・復興支援プロジェクトに従事することになり、タクロバンに滞在した。2014年2月から10月初めまで、通算で90日の間に見聞したことです。

レイテ島タクロバン

タクロバンは東ビサヤ地方のレイテ島に位置する人口22万人の小都、レイテ州政府所在地である。マゼランがフィリピンに初めて上陸した島が東サマール州ギワン市沖合の島、レイテ湾に浮かぶホモンホン島であり、タクロバン沖になる。また、太平洋戦争中は、激戦地であり、日本兵79数百名がこの島で戦死・戦病死している。戦時中については大岡昇平のレイテ戦記他が詳しい。

http://worldcityimg.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html

それ以外では、マルコス大統領夫人であるイメルダ・マルコス元大統領夫人、現在、下院議員、の出身地として知られている。そして、マルコス政権時代に日本の戦争賠償で1973年に完成したフィリピン最長の橋(

ヘッダーの写真)、サンファニーコ橋がレイテ島とサマール島を繋いでいる。

レイテ州 Leyte Province

レイテ島の北側がレイテ州、南側が南レイテ州となる。こちらの州都はレイテ州には、2つの都市(Independent cities)、3つの市(Component cities)、40の基礎自治体(Municipality)がある

タクロバン市 Tacloban City

地方行政制度上は、州と横並びの位置づけにあるHighly Urbanized Cityである。人口22万人()

タクロバンの中心街

碁盤の目に区画されている。計画的に建設された都市のようだ。タクロバン港が商業都市を代表している。また中国人商人が活躍し、現在も商業活動を担っているのは中国人であろう、市街地の建物や学校に表われている。

Santo Nino Parish(サントニーニョ教会)

タクロバンのシンボル的な教会。

 

フィリピン最長の橋 San Juanico Bridge

フィリピンで最も長い橋は、筆者が滞在しているレイテ島とその北側に位置する。 サマール島を結ぶ全長2200m、サン・ファニーコ海峡に架けられているサン・ファニーコ橋(San Juanico Bridge)である。

マルコス政権下の1969年より日本の援助(戦時賠償)で建設され、1973年に完成した。調査・設計は日本の技術者が実施し、フィリピン国営建設公社が建設した。

橋は鋼鉄構造で、平面線形は緩やかなS字型を描いて海峡に架けられている。橋
のスパン数は43で、中央部のスパン長は137m、トラス橋になって海峡を跨いでいる。最高点は海面から41mの高さがある。建設費はUSD21.9 mil。

この道路は国道1号線、Pan-Philippine Highway(Maharlika Highway) であり、AH26の位置づけでもある。

マルコス時代に竣工したので、マルコス橋とも呼ばれています。イメルダ・マル コスの故郷はレイテ島だったのでこの地が選定されたとも言えます。橋としては 美しい橋です。(2014年4月)

5月に橋の塗装をし直し、赤い色になっている。(2014年5月)

http://klubnikaphoto.blog.fc2.com/blog-entry-769.html

平和記念碑

市庁舎のある丘、ゲイトの右側の公園の一画、マグサイサイ通り沿いにある。

この記念碑の碑文は以下の通り。

■由来

この平和記念碑は、第二次世界大戦で母国のために勇敢に戦って戦死した日本とフィリピン慮国の軍人、軍属及び戦火によってこの地で尊い生命を失われた全ての人の「御霊を鎮めるとともに永遠の平和を祈念」して建設した。

また、フィリピンと日本の平和記念公園は、平和を愛する日本とフィリピン両国の相互理解を願い、レイテ住民のいこいの場所として造園した。

この事業は、中央政府の理解を得て、東京都遺族連合会が出資して、フィリピン政府観光省、フィリピン観光局、タクロバン市、東京都遺族連合会のプロジェクトによって完成した。

フィリピン共和国関係機関の支援と協力に対して深く感謝の意を表してここに明記する。


碑文の揮毫は東京都知事鈴木俊一によるものである。

平成7年3月29日

日本国 財団法人東京都遺族連合会

フィリピン共和国 観光局

 

■Dedication

This Peace commemoration statue and park is dedicated in prayer fro the eternal peace of the souls of the soldiers and paramilitary personel of Japan and the Philippines who bravely fought and died for thier countries as well as all people who lost thier precious lives due to the war.


This place of peace was constructed to further mutual understanding and peace between the peoples of Japan and the Philippines and a recreation area for the people of Leyte.


The Tokyo Survivor Association expresses its deep appraciation for the generous support cooperation of the city of Tacloban, and the Philippine Tourism Authority for the design and realization of this project.


This inscription was written by Hon.Shunichi Suzuki, Governor of Tokyo.


29 March 1995

Tokyo Survivor Association

Japan

マドンナ・マリア観音 Madonna of Japan

平和記念碑の隣に観音様が建っている。これをマドンナマリア観音という。現地ではMadonnna of Japanという。

碑文は以下の通り。

As a symbole of peace between the Filipinos and Japanese peolpe 33 years after the Second World War. This monument of the Madonna Maria Kannon is erected in memory of the brave soldies who fought and died in this battle field.

Keiko Sakamoto: Project Director

Nihonkoku Takarazukashi Nikawacho in coorporation with:


Hon.Obdvlia R. Cinco

Tacloban City Mayor

Famility of suviving members

Inscriber: Yoshikazu Sakamoto

Hisako Sakamoto


こ の像はマドンナマリア観音と称し太平洋戦争の戦場となったフィリピン全島に於いて悲しくも戦火の犠牲となってこの世と分かれた@多くの現地住民及び祖国の ためにと参戦した散華した全ての国の軍人軍属の御霊に永遠に安らかなれと祈念し、併せて全世界の平和を願って終戦33年を@念し日比両国の有志が協賛し鎮 魂と平和の象徴としてこの像を建立したものであります。

1977.12.7

発起人:日本国宝塚市仁川町 坂本啓子

協賛:タクロバン市民 市長 オブドゥリヤ・シンコ

日比両国@@@ 有志一同

作 坂本儀一 坂本久子

Hotel Alejandro

タクロバンでも最も古いホテルであろう、1932年築、太平洋戦争前、中、後の歴史を経験している。日本軍進行後、3ヶ月ほど軍が接収し、その後、鈴木性の日本語教師がこの館に住んでいた。しかし、1944年10月、米軍の侵攻に伴い、日本語教師は退去、その後は、米軍が使用した。

旧館のロビーに太平洋戦争当時の写真が展示されている。これは、マッカーサー再上陸50周年を記念して当時の写真を集めた展示会がマニラで開催され、その時に収集した写真を展示している。その際、米国大使館が協力しているので米軍の写真が多い。日本軍の写真は米軍からの提供だろう。日本統治時代のタクロバンの風景もある。これらの写真は、タクロバンに博物館が無いことからこのホテルが肩代わりしている、そしてこのホテルの特徴となっている。

http://eastriver229.blogspot.jp/2014/05/blog-post_8699.html

http://klubnikaphoto.blog.fc2.com/blog-entry-781.html

Price Mansionプライスマンション

マッカーサー連合軍司令官が、フィリピンに再上陸した後、タクロバンの宿舎兼司令部としてこの建物を使った。現存し、建物の横に、フィリピン大統領オスメーニャ氏と並んだ銅像が建っている。現在、FM局が使用している。

Santo Nino Shrine マルコス元大統領のゲストハウス

マルコス元大統領の29ゲストハウスの一つでイメルダ夫人ために建てたとされる、1978年か79年に竣工。大統領 夫妻のコレクションの一つ、ロシア正教のイコンやマトリョーシカが保存されていた。
http://www.tourisminthephilippines.com/city/Tacloban/Sto-Nino-Shrine-Museum/HTML/Tacloban-Sto-Nino-Shrine-Museum-Index.html

タクロバンの近隣

Yamazoe Shrine in Dulag, Leyte 山添神社

Yamazoe Shrine in Dulag, Leyte. 山添神社がドゥラグ町にあるというので行ってきた。山添とは、山添勇夫陸軍大尉のこと、日本軍が1942年5月にレイテ島を支配下に置き、米軍が上陸する 1944年10月まで駐留していた時のこと。公平な態度で住民に接したことから今でも語り継がれている。山添大尉は碑文によると1943年4月18日に戦 死している。Dulagには日本軍が使っていたBrauen Airfieldがあった、神社は その傍に位置する。
http://ajw.asahi.com/article/asia/around_asia/AJ201312120005

山添神社

http://eastriver229.blogspot.jp/2014/05/blog-post_6891.html

http://klubnikaphoto.blog.fc2.com/blog-entry-767.html

Dulag Central Elementary Schoolと日本軍

ドゥラグにあるDulag Central Elementary Schoolは以前日本軍が使用していた。

Gabaldon Building
Dulag Central School

Constructed in the 1920's under the leadership of Captain Tacio Lagunzad and Distrit Supervisor Jacinto Delireli. All rooms used as class room and intermadiate grade pupils. Site became populary known as "the new school site".

From August 1942 to October 19 1944, building was occupied and used by the Japanese Imperial Forces as a garrison and prison camp with an under ground bartolina "well fortified dungeon beneath the concrete stairs. Behind the building, a part from present athletic field, was the place of brutal atrocities of the Kenpeitai, the Japanese Military Police as well as a battle ground where underground forces attemted to recapture the place several times but was captured by the American liberation foreces in the morinig of October 20 1944.

筆者和訳
ガバルドンビルディング
ドゥラグセントラルスクール
Tacio Lagunzad大尉及び地区長(バランガイキャプテン) Jacinto Delireliのリーダーシップの下、1920年代に中学校(Intermediate Grade)として建築された。この場所は新学校としてよく知られた。

1942年8月から1944年10月19日まで日本軍が使用し、bartolina=地下牢、コンクリート階段の下にある堅牢な地下牢とともに駐屯地及び捕虜収容所として使われた。
建物の後ろ、現在の運動場の一部、は、恐れ慄く日本軍の憲兵隊があり、戦場と同様にゲリラが奪還を何度も試み1944年10月20日の朝、米軍により攻略された。

http://klubnikaphoto.blog.fc2.com/blog-entry-779.html

 

 

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