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サマール島

レイテ島の隣の島、サマール島、サンファニコ橋で結ばれている。レイテ湾側にはマゼランが初上陸したホモンホン島がある。また、太平洋戦争中の基地がギワンに、戦争後中国から避難してきた亡命ロシア人が一時、避難した。

サマール州

サンタ・リタ

タクロバンからサンファニコ橋を渡るとそこは、サマール州サンタリタとなる。

BaseyのSanto Augustin Church

丘の上に古い強固な教会が建っている。

東サマール州

 

ギワン Guiuan

レイテ湾へ突き出した半島の先に人口約5万人の町がある。これが不思議。

16世紀建立のスペイン教会

台風ヨランダにより崩壊。

JFKとギワン

ジョン・F・ケネディ元米国大統領が太平洋戦争に従軍した際、ギワンに滞在した。

中国からやってきた亡命ロシア人難民が滞在したGuiuanのTubabao Island

今回の台風ヨランダによる災害復旧では、米軍を含む軍隊が緊急避難や物資が東 サマール州ギワン空港を利用して実施された。このシーンは、関係者の中で60年以上前のロシア人難民の受け入れを思い起こさせたようだ。

"the same airstrip had been used for a dramatic evacuation of White Russian refugees, fleeing the Communist forces of Mao Zedong."

下記に英国インデペンデント紙の記事がある。

太平威容戦争直後、中国にはロシア革命(1917-20)から逃れて中国東北地方や上海に亡命ロシア人が多く住んでいた。戦後、中国では蒋介石の国民党が敗れ台湾へ逃がれ、1949年には毛沢東派が上海を陥落させることが確実になり、ロシア人を共産化中国から緊急避難の必要に迫れていた

そこで、第二次世界大戦後の難民支援を目的に設立された国連機関であるInternational Refugee Organisation (IRO) 、国際難民機関(1952年に運営を終了し組織をUNHCRへ継承)が、1949-50年にかけてロシア人約6300人を共産主義から守るために一次的な避難場所を提供した。

 

それが、ギワン市街地の沖に浮かぶツババオ島であり、ロシア人は難民キャンプに収容されることになった。この島が使用されることになったのは国連難民機関が各国へ打診した結果、フィリピン政府がそれに対応したことによる。間近だったので回答したのは一カ国だけであった。米国の影響の強かったフィリピンが米国の示唆の下、手を差し伸べたということであろう。ロシア人は、ロシア正教司教を中心に組織化され、教会が建設されミサも行われていたようだが、現在は残っていない。住いはテントだったようだ、その設営には難民自身も協力していた。

そして彼ら亡命ロシア人は、1-2年内に、米国、カナダ、オーストラリア、南米諸国へ各国の受け入れが整い次第移住していった。

 

下記記事のタイトルにあるようにギワンは冷戦の一翼を担った形となっている。しかし、ほとんど忘れ去られており、今回の台風ヨランダの災害復旧による外国人の出入りから再度掘り起こされたトピックであろう。記事にはツババオ島に滞在したロシア人とギワンの絆が強いとの説明がある。今回の台風ヨランダの災害復旧支援にも財政的な支援を行っている。

A forgotten episode in Russian history leaves links with the PhilippinesGuiuan was central to a remarkable part of the Cold War
http://www.independent.co.uk/voices/comment/a-forgotten-episode-in-russi
an-history-leaves-links-with-the-philippines-8980910.html

マゼランが初上陸したホモンホン島(Homonhon)

1519年8月10日、フェルディナンド・マゼラン(英名:Ferdinand Magellan、スペイン語ではフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes)、ポ ルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス(Ferna~o de Magalha~es)は、 東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目指す探検にスペイン王カルロス1世の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いてスペイン・セビリアを出発(準備ができていなかったので実際には近くの港から1519年9月20日出向)した。

フィリピンに到着するまでにマゼランは南米大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達した。この太平洋はマゼランが名付け、海峡はマゼランに因んでいる。

1521年3月16日、太平洋を横断してきたマゼラン艦隊がサマール島最南端、レイテ湾に浮かぶホモンホン島に上陸し、フィリピン諸島への第一歩を記した。最初の寄港地には安全な無人島を選んでいる。ホモンホン島はギワンの南に浮かぶ島、 上陸する前に近くの島でマレー人乗組員エンリケがマレー語を介して情報収集を行い、言葉が通じることを確認している。

その後、マゼランはレイテ島南端沖のリマサワ(Limasawa)島でコランプ王と親密になり、贈答品を交換する。マゼランとコランプ王はリマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。さらにコランプ王は艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内した。マゼランは、セブ王が周辺の王(首長)より有力であるとみて、マゼランは熱心に布教を行い、キリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。これに気をよくしたマゼランは周囲の王たちにも改宗とセブ王への服従を要求するようになった。つまり、現地政治に首を突っ込んだのだった。

セブ島対岸の小島マクタン島では改宗と服従を強要するために町を焼くことをし、マクタン島民の反感を買っていた。

マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた。多勢に無勢、マゼランはここマクタン島でラプ=ラプ王に敗れ戦死する。1521年4月27日であった。

マゼランはフィリピンで戦死したが、当初の目的であった香料諸島(モルッカ諸島)へ辿り着き、丁子を積み1522年9月6日スペインに帰国した。出航当初3隻270人の乗員が約3年間の航海で帰国した時には1隻18人であった。

ポルトガル人であるマゼランが率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げたと歴史に刻まれている。

ギワンの南沖合に浮かぶホモンホン島(Homonhon)に関する歴史でした、マゼランが最初に上陸した島、当時は無人島だったようですが現在は4311人(2010)の島民が住んでいる。台風ヨランダの災害復旧でで自衛隊の比国際緊急援助統合任務部隊がホモンホン島へ救援物資を輸送している(下記記事参照)。 (マゼランに関してはwikiを参考にした)

自衛隊の比国際緊急援助統合任務部隊、東サマール州ギウアン町ホモンホン島に救援物資を輸送

http://www.manila-shimbun.com/category/nature/news210406.html

抜粋元:

http://archive.mag2.com/0000283202/20140425073000000.html

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